子どもの未来は日本の未来
人として最も本質的・根源的な「仁」の養成活動としての
通年型農業体験活動
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三千年以上前の『東洋最古の書「易経」』で児童少年時代の実践道徳のすすめとして「生命を育む活動」を奨励 !!!
私の主な職務歴
このページは私が37年間の九州・熊本という地方行政で細やかではありますが経験・体験したことや、自ら政策の企画立案に関わり事業が実現できたことや進展したことなど、当時の所感を含めて簡潔に「主な職務歴」として整理してみました。ほぼ半世紀前の「全体の奉仕者」としての原点に立ち返り、当時の資料や写真、手帳のメモ等を整理し想い起こしながら、少々手前味噌になるかも判りませんがご紹介してご理解を賜りたいと思います。
市民生活局市民部国民健康保険課に配属
1972年(昭和47年)4月1日、熊本市役所上級職職員として採用されました。1ケ月研修の後、「常に向上心を持って、47万熊本市民に奉仕したい」との誓いの言葉を胸に、社会保障費の太宗を担う国民健康保険課へ配属され、地方行政での初仕事を経験しました。国の政策としての老人医療無料化事務や国民健康保険税の滞納整理など生活困窮者やひとり住まいの高齢者の皆さんの相談・交渉業務に携わり、色々の難しい問題と対処することになり、地域社会の一端を垣間見ることになりました。この年の9月29日、田中角栄首相と中国周恩来首相によって、日中国交正常化がなされ、熊本においても熊本新港の整備開港に伴い今後日中貿易が待望されるような地元新聞の報道を見ながら、経済行政に強い関心を持ったことを記憶しています。
経済局商工部中小企業課に異動
1973年(昭和48年)7月、中小企業課へ配置転換され、10月から通商産業省所管の中小企業振興事業団の中小企業診断士研修(1年研修)を受講するため、先輩などからのアドバイスも頂き詰め込みで勉強して、どうにか中小企業研修所へ入所することが出来ました。全国から都道府県職員、金融機関、商工関係団体職員、政令市・一般市の職員70名からなる寮生活での1年研修でありました。座学・実習の繰り返しで研修終了後、一応の中小企業の経営診断が可能なレベルで無事に卒業となりました。1974年9月に卒業して、1975年4月1日に資格取得。やはりこの研修で「日本経済・地域経済を見る目」が養われ、「中小企業の実情」が理解でき、後の政策立案能力が身に着いたと大変感謝しています。
1973年(昭和48年)は熊本にとっても、日本にとっても忘れ難い年でありました。研修スタート直後の昭和48年11月29日13時15分熊本の大洋デパートの大火災が発生し、死者103名、重軽傷124名の大惨事となりました。一時、熊本への通信網が完全にマヒし連絡が取れないまま、不安な時間を過ごしたことを記憶しております。
また日本全体としては1973年10月の第4次中東戦争が勃発し、OPEC、OAPEC等の石油戦略によって、オイルショックとも呼ばれ、原油価格が1バレル3,01ドルが1974年1月からは11,65ドルへ引き上げられました。この影響で1974年の日本の消費者物価指数が23%上昇し、「狂乱物価」と呼ばれ、全国各地で「トイレットペーパー騒動」が発生しました。またこの年の春闘では、今日では信じ難いベアが32%台だったと記憶しています。
1979年(昭和54年3月)、熊本は元来肥沃豊饒の地であり一次産業・二次産業・三次産業が有機的に連関でき得れば、熊本の戦略産業としての可能性を大いに秘めていると思われます。そこで「食は肥の国にあり」という地域のシステムが構築できないかという素朴な問題意識で「食品業界」の調査研究を実施し、後のフードパル建設事業へ結びつく糸口を掴むことが出来ました。
その他、「重要な業種・業界、事業についての調査研究」という形で現状分析・課題抽出・具体的振興策の検討ということで地域経済の基盤産業としての地域中小企業の活路開拓の道を使命感を同じくする同僚達と追究しました。
1980年(昭和55年)11月、経済界から平田機工(株)平田耕也社長外22名、学識経験者として松山公一熊本大学学長他6名、行政委員2名からなる熊本市工業振興懇談会(座長:緒方求也ニュースカイホテル社長)の最終答申作成に中小企業診断士の研修を終えて6年目、若輩ながら従事させて頂きました。第3次熊本市総合計画に反映させるため、星子敏雄市長の私的諮問機関として設置されました。熊本地域の更なる経済活性化のために 1「緑に包まれた快適な生産空間」を目指した工業団地建設構想、 2「熊本市工業振興協会の設立構想」、 3「地域開発研究センターの設置促進」、 4「食品加工研究所の設置」、 5「産業貿易見本市展示会場の設置」、 6「産業情報センターの設置」、 7「職業訓練短期大学の機能拡充と有効活用」、 8「熊本流通センター建設の早期実現」など極めて有益な8つの提言が答申されました。経済関係者からは大変重宝がられたようです。
1982年(昭和57年)6月、全国に先駆けて九州内外から発酵工業を中心としたバイオ関連企業、大学、行政が集い、画期的な学術的な組織としてバイオテクノロジー研究推進会(会長:本江元吉熊本工業大学副学長)が先代熊本工業大学中山学長、本江副学長、緒方求也熊本市工業振興懇談会会長等の並々ならぬ地域発展の情熱でこの熊本の地で発足しました。当時助教授の岩原先生を中心に「熊本地域のバイオサイクルランド構想」等も取り纏めることが出来ました。36年目を迎えた現在、研究助成を主体としながらも「バイオ甲子園」など高校生の調査研究能力の向上にも貢献するなど大変ユニークな活動が展開されています。
1984年(昭和59年)4月経済局商工部商工課工業振興係長へ昇任、35歳。
これまで、中国桂林市との友好姉妹都市5周年を記念した事業計画案として、「観光と物産展」を開催する内容でありましたが、星子敏雄市長が5月に桂林市を訪問された際に、桂林市長から「工業博覧会」を実施てほしいとの強い要望が出され、急遽内容変更となり昇任したばかりの私が担当係長なってしまいました。折しも中国の事情は改革開放経済計画が緒に就いたばかりの時期であり、無理からぬリクエストであったと考えられます。それからの諸準備は東奔西走どころではなく、当初予算措置がしてないので、基本的には進出企業も含めて地場中小企業からの寄付行為としての「お願いベース」であり、30数社の展示物の交渉はもちろん紹介パネルの中国版製作、現地での生産技術・生産管理セミナー教材の中国版製作など毎日深夜作業の連続でありました。結果として課長補佐以下のプロジェクトチームの使命感で何とか、11月中国桂林市において熊本市制始まって以来の海外での熊本産業展覧会を開催することが出来ました。当時の中国桂林市では一種のカルチャーショックであり、押すな押すなの大盛況でありました。この事務局スタッフとして最初から最後の経済特区の深圳への熊本からの経済ミッション(団長:永野光哉熊本日日新聞社社長)への同行含め約1ケ月程中国に滞在し、大変貴重な経験をさせて頂きました。
1987年(昭和62年)11月に第25代熊本市長に就任された田尻靖幹市長の公約であった重点施策としての地域経済活性化の基盤である中小企業を一層振興・発展させるため「地域中小企業の防衛」という観点から、その専任部局としての中小企業局が設置されました。直ちに局内の係長クラスを中心に精鋭のワーキングチームでその具体的な振興策として「活力ある中小企業をめざして」という副題で「熊本市中小企業振興ビジョン」を策定致しました。当時の局長さんからは「熊本の実情が余りにも判り易い」との過分なる評価も頂きました。
1989年(平成元年)4月課長補佐へ昇任、40歳。
10月、米国テキサス州サンアントニオ市のコンベンションホールで姉妹都市締結を記念して開催された「日本・熊本展」の事務局スタッフとして約2週間滞在。成田発ロサンジェルス空港・ダラス空港経由サンアントニオ空港着の22時間の超長旅でした。ダラス空港のスケールの大きさにはビックリ。そして、またまたビックリしたのが、さすが国際コンベンション都市サンアントニオ市のコンベンションホールの大きさで広さ30000㎡規模であり、その一角の1000㎡を使っての寿司・天ぷらの実演コーナーを含め熊本市の現状を展示紹介しました。
1992年(平成4年)4月、中小企業局振興課長へ昇任、43歳。
全国で初めての中小企業団地による「食のテーマパーク」を目指したファクトリーパークづくりとして、7月7日の七夕の日に願掛けたわけではありませんが、開発主体としての環境事業団(平成4年名称変更)、事業主体としての中小企業者33社、計画主体としての熊本市の三者で具体的展開を図るためのフードパル建設推進協議会(会長:杉武男杉養蜂園社長)を発足しました。この時の基本構想が地元紙の1992年(平成4年1月1日)朝刊1面トップに掲載され、関係者一同驚きと同時に実現へのエールを再確認いたしました。平成6年11月にはフードパルの基本理念の一つとして「街づくりの観点を重視し、環境と調和した質の高い新しいタイプの団地づくり」ということで、熊本市(田尻靖幹市長)とフードパル熊本協同組合(杉武男理事長)において環境協定が調印されました。
「熊本日日新聞 平成4年1月1日付」
1995年(平成7年)10月22日から30日まで、熊本商工会議所青年部のヨーロッパ経済事情視察団のメンバーとしてドイツ・イタリア・フランスを訪問しました。世界史に登場する史跡や観光地が中世時代のまま保存・活用されている西欧文化の厚みにはカルチャーショックを受けました。また、ヨーロッパの国々10数か国を跨ぎながら、アウトバーンが網の目のように形成されている様はEU 実現の源ここにありの現実を見せつけられました。
1996年(平成8年)11月7日から10日まで、くまもと科学・技術振興クラブ主催の中国揚子江流域の経済開発状況調査団へ個人参加しました。長さ4000キロ、まさに河口は大河の如く有様で揚子江の大河振りにはビックリしました。また、上海の不夜城の成長発展振りを見ると改革開放経済体制下の中国の躍進ぶりを占うかの様でした。
1997年(平成9年)11月11日は、経済行政マンとして20年近くの想いを込めて取り組んできたフードパルが食のテーマパークとして5年4か月をかけて、まだまだたくさんの課題は抱えながらも、全国で初めての地域中小企業の新しいステージとして一応の供用開始が出来ました。理事長杉武男杉養蜂園社長以下12社が各々新しいビジネスモデルを掲げ、会社の命運を掛け、全国に先駆けこの事業に参画されました。県内の中小企業の団地化については経産省の高度化事業が殆どであり、今回の環境事業団の制度を活用した中小企業団地は県内で初めてであり、ファクトリパークと言う概念をどこまで実現できるか、各分野からは異常な関心が集まっていました。財政投融資資金を活用した環境事業団の制度は生産工場だけでなく、レストランや販売コーナーなど地方中小食品メーカーの生き残り策にとって、必須の要件を満たしていました。
中小企業にとっては理想郷かも判りませんが、ファクトリーパークという明確なコンセプト型、しかもマーケットイン型の工業団地として、まだ「途半ば」の事業でありましたが、県内外からの視察者及び来場者が当初は年間に100万人にも及び、熊本城に次ぐ、熊本の新たな「産業観光」の拠点としての可能性が生まれました。
「熊本日日新聞 平成9年12月6日付」
1992年、平成4年度に「通商産業省ファッションタウン構想」調査対象都市に指定されて以来、平成5年度「ファッション度調査」、平成6年度は「ファッション産業基本調査」を実施ながら、11月30日には「国際ファッション・シンポジウム」を日本ファッション協会の協力を得て、イタリア・コモ市のマルコ・チッテリオ商工会議所会頭や環境デザイナーの泉真也氏、文化服装学院の小池千枝名誉学院長、通商産業省生活産業局統括課長補佐の小宮義則氏(後、特許庁長官)、熊本出身の世界的デザイナーの田山淳朗氏などをお招きし、地元からは宮嶋昭二熊本商工会議所会頭が参加して、地方都市としては素晴らしい講師陣で初めて開催することが出来ました。
平成7年度「ファッションタウンビジョン基本方向策定調査」、平成8年度に産業界・学識・市民・行政による「くまもとファッションタウン推進協議会」を設立し「くまもとファッションタウン基本構想」の策定と着実に熊本市のファッションタウンとしての可能性を追求してきました。そして平成9年度には「くまもとファッションタウン構想基本計画」を策定し、今後の熊本市のファッションタウンとしての諸政策の基本方向を策定することが出来ました。また、1998年、平成10年2月には田山淳朗氏を審査委員長とするファッションイベントととして「くまもとファッション・ムーブ97」も開催することが出来ました。さらに、くまもとファッション協会(会長:宮嶋昭二商工会議所会頭)も設立されました。
残念ながら、思い掛けない人事異動後の事業になってしまいましたが、平成10年10月28日・29日一連のファッションタウン構想の
集大成とも言うべき「ファッションタウンサミット」がホテルキャッスルで華やかに開催されました。私は移動先の立場で研修会の一つ「中小企業新世紀夜話・フードパルストーリー」のシナリオ作成から当日のコーディネーターも依頼され、担当させて頂きました。
「熊本日日新聞 平成9年5月21日付」
1998 年(平成10年)4月、企画調整局首席企画審議員「(財)熊本開発研究センターへ出向」へ昇任
三角保之市長から、熊本地域における唯一のシンクタンクである財団法人熊本開発研究センター(理事長:長野吉彰肥後銀行会長)の企画総務部長として、思い掛けなくも派遣を命じられました。熊本県と肥後銀行・熊本日日新聞・九州電力・NTT・西部ガス・ファミリー銀行の民間企業の6社の出向者及び5名のプロパー研究員の皆さんとともに地域間・都市圏間競争が激化する中、熊本広域都市圏の開発整備の在り方についての政策創造に切磋琢磨した刺激的な1年間でした。
1999年(平成11年)4月、市民生活局首席民生審議員兼地域づくり推進課長、平成13年4月市民生活局地域振興部長へ異動
住民自治の最前線で約730位の自治会長と地域ごとの研修会を開催し交流を深め、小学校区単位の「まちづくり研究会・委員会」の推進や校区の自治会館的な地域コミュニティセンターを住民設計制度を取り入れながらの建設推進など、近未来の熊本型デモクラシーの在り方についての勉強ができる良い機会を頂きました。
また、市の市民センターの中で一番古かった西部市民センターの移転建て替えについて、平成12年度に用地購入、13年度にセンター建築というギリギリのスケジュールでしかも、将来の政令都市における区役所も想定しながらの土地利用計画・建築計画でしたが、予定通り14年3月には落成式を終えることが出来ました。
2002年(平成14年)4月、環境保全局環境保全部長へ異動
10月27日から5日間、高円宮御夫妻の御来臨のもと、17ヵ国73の都市や機関などから市民・企業・NGO、国や各自治体の代表者等、約2900人が参加して「国際環境都市会議くまもと2002」が三角保之市長の肝入りで盛大に開催されました。
また近年の熊本地域の地下水事情の急速な悪化に対する取り組みとして恒常的な地下水収支のマイナス基調を改善するため、涵養域である菊陽町や大津町における「白川中流域の水田涵養による地下水涵養事業」という熊本市にとっては大変重要な歴史的な課題がありました。そこで環境保全部水保全課が担当課として菊陽町・大津町・各土地改良区・JA、そして総合調整機関としての熊本県企画部などで「白川中流域水田活用連絡協議会」を設置しながら、事業実施体制や取り組み農家に対する支援内容などの合意形成を図り、何とか平成16年1月21日、この歴史的な事業についても、熊本県知事、熊本市長、菊陽町長、大津町長による協定書の調印まで漕ぎ着けることが出来ました。右側の写真は高円宮御夫妻による市民会館前でのヒマラヤ桜の植樹式。
「熊本日日新聞 平成16年1月21 日付」
2004年(平成16年)4月、熊本城総合事務所所長へ異動
人生には想定外のことが起こり得る「まさかの坂」の異動ではありましたが、プラス思考で加藤清正公の城代家老職を懸命に努めました。そのような中、5月1日に思い掛けなくも人気テレビ番組の「日立・世界ふしぎ発見」の取材を美人キャスターから熊本城数寄屋丸で受けることになりました。6月19日にオンエアーされ、タダで天下の名城熊本城を全国放送でPRが出来、TBS のスタッフの方々には感謝感激でした。また、5月7日には世界的照明デザイナーの石井幹子先生が事務所を訪問され、「大天守最上階に照明を付けたら」との提案を受け、参考に大阪城を見学したらとのアドバイスを頂きました。早速6月下旬に大阪城近くのホテルに宿泊し、大阪府民の安寧を照らし続けている夜の大阪城を「夜通し見学」しました。しかし、当時は本丸御殿大広間の復元工事の最中でもあり、今後の宿題として託すことになりました。職責上、本丸御殿の復元工事現場の凄さを、度々見学することが出来たり、滅多に見ることが出来ない、京都二条城で本丸御殿「昭君の間」の中国4大美人「王昭君」の障壁画等の模写の製作現場も拝見することが叶いました。さらに、17年2月3,4日は全国城郭管理者協議会の副会長職に熊本城がなっていたため、熊本の地で二条城、大阪城、名古屋城、姫路城などの全国の名城の管理者20数名がKKR熊本に参集し、記念すべき第40回役員協議会が開催されました。夜の懇親会の時は先駆けて、本丸御殿大広間の復元の最中でもあり、また私の細やかな個人的な「香露の大吟醸でのもてなし」の効果もあったのか「熊本城がやはり日本一ですよ」と天下の名城の責任者の皆さんから身に余るお褒めの言葉を賜りました。翌3月28日午前10時からは、加藤清正公と同じ尾張名古屋で竹馬の友で腹心中の腹心、飯田覚兵衛の館「飯田丸5階櫓」の竣工式に進行役として立ち会うことが出来ました。しかしながら、何と驚いたことにこれ程の評価を頂いている熊本城のホームページがまだ存在していなかったことでした。早速、翌年の予算措置をお願い致しました。
2006年(平成18年)4月、初代危機管理監に昇任・異動
「前年の消防局次長の経験を踏まえて頑張ってください」と幸山政史市長より御下命を頂き、局長級の初代危機管理監として67万余の熊本市民の生命・身体・財産を護るという崇高なお役目を頂きました。近年の東アジア諸国との緊張関係を想定した国民保護法に基づく熊本市国民保護計画の策定や例年の白川下流域で実施する総合防災訓練、阪神淡路大震災の大規模災害の経験に基づく、市職員の早朝参集訓練や交通センター地下街における初めてのテロ災害訓練の実施など熊本市も自然災害なども含めて、自衛隊西部方面総監・熊本県警や熊本市消防局等の防災関係機関との協力体制を構築しながら、熊本市の危機管理体制の整備充実が急がれていました。これからの地球環境対策を怠れば「21世紀は自然から復讐を受ける世紀」とも言われ、これまでの治山治水対策の前提条件(時間雨量50ミリ)を大きく覆すようなスコール的集中豪雨が頻発する事態は覚悟しながらも、熊本市にとって望ましい治水対策の積極的な前進と迅速な避難体制の確立を急がなければなりません。
護衛艦みょうこう艦上昼食会記念 平成20年4月13日(日)
2009年(平成21年)3月31日、 後顧の憂いなく熊本市役所を退職
37年間辞令1枚で、全て仕事替えしながらの新鮮で楽しくもあり、人生勉強になった市役所人生でした。23年間の経済行政が中心で、事務・管理部門ではなく事業部門・現場部門の生活でした。「大過なく」ではなく、常に当事者意識を持ち、自ら「リスクと向き合って」の役人人生だったと振り返っております。先輩・同僚との使命感を共有しながらも、市政の節目・節目の重要な事業と向き合うことが出来、貴重な体験の連続であり、つい昨日のような「大変、想い出深い37年間」でありました。
むべなるかな ‼ 私の卒業小論
都市像について
*理想的には80万人規模の政令都市実現を踏まえて、それこそ九州の位置的優位性、加えて県勢発展のエンジン役としてクロス
ポイント熊本市の地域力を最大限に発揮しながら、九州の軽井沢とも称されるナショナルパークとしての阿蘇や天草宝島などの
素晴らしい自然遺産や、本丸御殿の復元によって正しく日本一の名城になった歴史文化遺産の熊本城、この2つの世界遺産候
補を抱え、日本の名水ベスト3としてのナチュラル・ミネラルウォーター100%の世界的にも稀な地下水都市熊本によって、風格と
品格のある日本の雄都の実現を目指してもらいたいと考えます。
*さらにはパリに代表される文化立国フランスのベースは農業大国であり、その象徴としてのワインとフレンチの如く、ここ熊本に於いても全国有数の農業県熊本をバックグラウンドに「食は肥の国に在り」と言われるような1次産業と2次産業、そして3次産業
が有機的に産業連携した食文化産業都市の形成を図ってもらいたいと考えます。
*そして、イタリアやギリシャのように日常的に街なかで食文化事業が多彩に展開され、県内外からの入込客700万人、宿泊客 300万人などの千客万来都市の実現に官民結集して取り組んでもらいたいと考えます。
子ども達の「育ちの環境」について ―子どもの未来は日本の未来―
*熊本市内のある中学校の壁新聞の落書きに「俺達の心に三匹のタイがいる。ほめられタイ。認められタイ。人のためになりタ イ」と。このように、もともと全ての子ども達は人間本来の天賦の資質を備えています。この「社会の宝」が健やかに、伸びやか に、逞しく自己を耕すことが出来るための「育ちの環境」を新たに創造することが教育立県熊本、否日本においても急務ではない
かと思われます。
*今かってない教育の危機の時代と言われています。これからの時代に必要なのは学歴よりも総合的な実力であり、自分自身のチカラで物事を考え、自律した精神を持ち、自分自身で他人と実りある関係を築ける、そんな力を持った人間であると言われて います。
*そこで、義務教育課程の小中学校に隣接し、学校農園、学校の森、ビオトープ、市民農園、市民の森などの複合機能を持ち「地域の人と自然と歴史」が日常的に触れ合える未来空間と交流しながら、子ども達が「感動と感謝と生命」を体験・体感し得るネ
オ・コミュニティの整備が必要と考えます。
熊本の元気の源の地域経済の活性化について
*2つの世界遺産候補を有した観光産業、全国有数の農業県をバックグラウンドにした食文化産業、グローバルカンパニーとしての多くの進出企業との生産連携・技術連携、新たなビジネスモデルに挑戦する企業、そして地域経済の基盤である商工業を中 心とした活力ある多数としての中小企業など、重層で多様な産業連携・地域連携・産学連携をベースにした地域経済の発展・繁栄が望まれると考えます。
*経世済民という言葉があるように、熊本地域の富を創造する力の源泉はやはり企業であり、意欲的な企業活動が雇用を生み、
人々に所得をもたらし、消費需要を顕在化させるものです。
*現在の熊本市の場合、中小企業の皆さんの旺盛な企業家精神と経営努力で約2万7千の事業所で約27万人を雇用しています。その結果として、平成19年度では約1兆円程度の所得機会を提供しています。また熊本市の税収面からも最大の納税者であり ます。
2009年(平成21年)6月1日退職直後 「非常勤国家公務員・保護司」を拝命
消防局次長の時に懇意の熊本市消防団副団長さんから、退職後はぜひ「保護司」をと懇願されていました。私は保護司については全く知識がなく、これまでの経験が生かされない職務でありましたので多少不安でしたが、退職直後の6月1日付で森英介法務大臣より委嘱を受け保護司活動がスタートしました。
地方公務に37年間携わり、その御恩返しの積りで引き受けた以上、10年程度は非常勤と言えども国家公務員として奉仕しなければという思いでした。近年の教育界での喫緊の課題と言われる「今の子ども達の規範意識のなさ・低さ」というものを直接体験することになりました。私が10年間の保護司生活の中で、月2回私の自宅で半年間「面接・指導」した対象者は交通違反事案などの、まだまだ社会のルールや厳しさを知らない少年達でした。
そのような中、2017年(平成29年)8月3日西区の市立三和中学校2年生を対象に、非行や犯罪の未然防止のため『非行や犯罪を防止し、立ち直りを支える地域のチカラ=「法教育」公開ケース研究会=』を熊本地方検察庁・熊本保護観察所・西地区保護司会の共催という形式で、県内で初めて実施を致しました。このことが、熊本保護観察所から認められ、翌2018年(平成30年)1月23日、24日の法務省・国連アジア極東犯罪防止研修所において開催された「第二回保護司国際研修」への派遣を、思い掛けなくも命じられました。
通称「アジ研」と言われるこの研修所は以前は東京都府中市に所在していたのが、近年東京都昭島市に移転新築されました。
この府中研修所時代に「私の主な職務歴」にも紹介していますように、当時通商産業省の中小企業研修所が同じ府中市にあり研修の際「アジ研」「アジ研」というのを界隈でよく耳にすることがありました。何か民間の研究機関かなという程度の認識でした。
45年後、このような奇縁でこの「アジ研」の研修所で、ブラジル・インドネシア・フィリピン等20 ヶ国の検事・判事の海外研修生の皆さんといっしょに「法教育と市民参加」というテーマで「国際研修」を受けるとはゆめゆめ思いもしませんでした。そして、2月26日にはこの国際研修の内容を保護観察所のご指示もあり、熊本保護区内の保護司の皆さんの研修会ということで市民会館大会議室でご報告させて頂きました。
翌2019年(令和元年)5月31日満10年で保護司を退任したいという当初の想いが、このような形で最高の舞台を創って頂いたことに保護観察所を始め関係各位に深く感謝しながら、非常勤の国家公務員という大変貴重で稀な経験をさせて頂き、快く退任することが出来ました。